かつてユネスコ傘下の組織であったJMJ福岡という組織が存在しました。東京に本部があり、その支部としての福岡JMJでした。
JMJFは実質的に福岡の大学のオーケストラによる合同団体でしたが、後援・援助の打ち切り、加盟団体のモチベーションの低下及び脱退により一時期は存続の危機を迎えていました。
それを乗り越え、組織再編が成功した矢先にJMJ本部解散の報が入ったのでした。
今回、このことについて記そうと思い立ったのは、久しぶりにJMJFの後継団体である福岡学生シンフォニーオーケストラ(FSSO)の定期演奏会を聴きに行って素晴らしい感銘を受けたこと。そして、私の私淑する山本先生の10周年に当たっての挨拶文を目にしたからです。
もはやインターネット上にJMJについての情報はあまり見当たりませんが、JMJF後期及びFSSOに関わった身としては、どういういきさつがあったのか、個人的見解を記す義務があるのではないかと思い当りました。
十年近くの個人的な思いを吐露することになるであろうため、大変な長文になるかと思われますが、お時間のあるかたにはお付き合い頂きたい。
私がJMJFという組織と密接に関わるようになるのは、加盟大学の一つが脱退し、その常務委員の抜けた穴を補充すべく任期途中より常務委員として参加してからとなります。それだけ風当たりの強かった時期ではありますが、実際の演奏の出来栄えや伝聞での練習の雰囲気などを耳にするにそれも致し方ない状況でした。風前の灯、そういっても大げさではなかったと言えます。
そこで組織の改編、練習計画の細分化などを図るのですが、今考えてみれば欠員が出た場合の代奏の確保徹底など、アマチュアオーケストラとしてはやることが当たり前のことができていなかったという部分もあります。
投票によって決まった曲はチャイコフスキーの序曲「ロメオとジュリエット」・ラフマニノフの交響曲第2番と難曲揃い。この状況で果たしてこんな難曲に立ち向かえるのか?という不安が募る日々でした。
実際に練習が始まると、メンバーの皆がとても献身的に協力してくれました。その時、「なんとかなるかも?」と思ったことを覚えています。
その後、すっかりJMJという組織に馴染んでしまった私はラフマニノフに大苦戦したりしつつも色んな人との出会いもあって楽しみまくって常務委員の任期を終えたのでしたw
この年がJMJFのターニング・ポイントであったのは間違いありません。今のFSSOほど安定していたわけではありませんが、この年から明らかにJMJFは変わりました。
これからは何とかこうにか、上手くやっていけるんではないか?
というところにJMJ東京解散の報せが入ります。
「JMJ」という名前を使って存続するのは不可能。そこでFSSOという形で大学合同オーケストラを続けていくという運びとなりました。
奇しくもJMJFとしての最後の演奏会はベートーヴェンの交響曲第9番。2003年のことでした。
命懸け、という言葉を軽々しく使うのは憚られるところがありますが、まさにこの時は命懸けだったとしか言いようがありません。私だけではありません。後輩の常務委員を始めとしたメンバー、そして師匠も正に命懸けだったのです。初合奏の前に譜読みトレーニングを行ったのですが、最初の練習での第4楽章は正に忘れ難い。
そして、FSSOにバトンタッチして10年。
FSSOになってからも悲愴、巨人には参加しました。悲愴の時は第九をやったときのメンバーが大量にいて懐かしかった。そして、FSSOというかJMJにとって因縁のあったマーラーの巨人の成功を見届けたのを最後に身を退くこととなりました。
それからしばらくは仕事等の関係で聴きに行くことができずにいましたが、昨年夏の演奏会のマーラーの録音を聴いて割と本気で行かなかったことに凹んだので、今回は行くぞ!と思って行ったら第10回の演奏会なのでしたw
10年、と一言で言っても長い。もちろんのことながら当時のメンバーは残っていない。
だけど、オーケストラの豊かな響きに身を委ねるというのはいつぶりのことだろう。
ミスとか、アラとか(なかったわけではないけどw)気にせずに穏やかな心で実演を聴くなんていつぶりのことだろう。
FSSOが、こんな立派な団体になっていることが、ただただ嬉しい。そして懐かしい。
私は、誤解を恐れずに言えばJMJに育てられた人間だと思う。芸工大の定期に出て、翌日JMJの指揮トレなんてムチャも経験した。そんな中でいい連中に出会えたと思うし、新しい世界に飛び込むことはとても魅力的であることを学んだ。だから、別のジャンルの音楽にも躊躇せず飛びこめたのだと思う。
唐津のジュニオケに出てたような子供が大学生になってFSSOに出ているという事実を考えるにつけ、年食ったと思うが、若い人たちはこれからもFSSOを盛り上げてくれると嬉しいとオジサンは思ったりするw
演奏に参加された皆さん、裏方で頑張った皆さん、本当にお疲れさまでした。どうかこれからも素敵な音楽を―
JMJFは実質的に福岡の大学のオーケストラによる合同団体でしたが、後援・援助の打ち切り、加盟団体のモチベーションの低下及び脱退により一時期は存続の危機を迎えていました。
それを乗り越え、組織再編が成功した矢先にJMJ本部解散の報が入ったのでした。
今回、このことについて記そうと思い立ったのは、久しぶりにJMJFの後継団体である福岡学生シンフォニーオーケストラ(FSSO)の定期演奏会を聴きに行って素晴らしい感銘を受けたこと。そして、私の私淑する山本先生の10周年に当たっての挨拶文を目にしたからです。
もはやインターネット上にJMJについての情報はあまり見当たりませんが、JMJF後期及びFSSOに関わった身としては、どういういきさつがあったのか、個人的見解を記す義務があるのではないかと思い当りました。
十年近くの個人的な思いを吐露することになるであろうため、大変な長文になるかと思われますが、お時間のあるかたにはお付き合い頂きたい。
私がJMJFという組織と密接に関わるようになるのは、加盟大学の一つが脱退し、その常務委員の抜けた穴を補充すべく任期途中より常務委員として参加してからとなります。それだけ風当たりの強かった時期ではありますが、実際の演奏の出来栄えや伝聞での練習の雰囲気などを耳にするにそれも致し方ない状況でした。風前の灯、そういっても大げさではなかったと言えます。
そこで組織の改編、練習計画の細分化などを図るのですが、今考えてみれば欠員が出た場合の代奏の確保徹底など、アマチュアオーケストラとしてはやることが当たり前のことができていなかったという部分もあります。
投票によって決まった曲はチャイコフスキーの序曲「ロメオとジュリエット」・ラフマニノフの交響曲第2番と難曲揃い。この状況で果たしてこんな難曲に立ち向かえるのか?という不安が募る日々でした。
実際に練習が始まると、メンバーの皆がとても献身的に協力してくれました。その時、「なんとかなるかも?」と思ったことを覚えています。
その後、すっかりJMJという組織に馴染んでしまった私はラフマニノフに大苦戦したりしつつも色んな人との出会いもあって楽しみまくって常務委員の任期を終えたのでしたw
この年がJMJFのターニング・ポイントであったのは間違いありません。今のFSSOほど安定していたわけではありませんが、この年から明らかにJMJFは変わりました。
これからは何とかこうにか、上手くやっていけるんではないか?
というところにJMJ東京解散の報せが入ります。
「JMJ」という名前を使って存続するのは不可能。そこでFSSOという形で大学合同オーケストラを続けていくという運びとなりました。
奇しくもJMJFとしての最後の演奏会はベートーヴェンの交響曲第9番。2003年のことでした。
命懸け、という言葉を軽々しく使うのは憚られるところがありますが、まさにこの時は命懸けだったとしか言いようがありません。私だけではありません。後輩の常務委員を始めとしたメンバー、そして師匠も正に命懸けだったのです。初合奏の前に譜読みトレーニングを行ったのですが、最初の練習での第4楽章は正に忘れ難い。
そして、FSSOにバトンタッチして10年。
FSSOになってからも悲愴、巨人には参加しました。悲愴の時は第九をやったときのメンバーが大量にいて懐かしかった。そして、FSSOというかJMJにとって因縁のあったマーラーの巨人の成功を見届けたのを最後に身を退くこととなりました。
それからしばらくは仕事等の関係で聴きに行くことができずにいましたが、昨年夏の演奏会のマーラーの録音を聴いて割と本気で行かなかったことに凹んだので、今回は行くぞ!と思って行ったら第10回の演奏会なのでしたw
10年、と一言で言っても長い。もちろんのことながら当時のメンバーは残っていない。
だけど、オーケストラの豊かな響きに身を委ねるというのはいつぶりのことだろう。
ミスとか、アラとか(なかったわけではないけどw)気にせずに穏やかな心で実演を聴くなんていつぶりのことだろう。
FSSOが、こんな立派な団体になっていることが、ただただ嬉しい。そして懐かしい。
私は、誤解を恐れずに言えばJMJに育てられた人間だと思う。芸工大の定期に出て、翌日JMJの指揮トレなんてムチャも経験した。そんな中でいい連中に出会えたと思うし、新しい世界に飛び込むことはとても魅力的であることを学んだ。だから、別のジャンルの音楽にも躊躇せず飛びこめたのだと思う。
唐津のジュニオケに出てたような子供が大学生になってFSSOに出ているという事実を考えるにつけ、年食ったと思うが、若い人たちはこれからもFSSOを盛り上げてくれると嬉しいとオジサンは思ったりするw
演奏に参加された皆さん、裏方で頑張った皆さん、本当にお疲れさまでした。どうかこれからも素敵な音楽を―
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